大学を卒業したのぶあき(22)には東京に出て自分探しをしたいという希望があった。しかし、村会議員と建設請負業を兼業する父が肝硬変で倒れてしまう。
病床の父は痩せ細ったふくらはぎを見せ、のぶあきに言った。
「外の世界を見てみたいお前の気持ちもわかる。せやけど、この足を見てもわかるように、もう長くない・・・。後を継いでくれないだろうか。」
父の姿を目の当たりにしたのぶあきは、東京行きをあきらめ、父の後を継ぐ決心をする。
一方その頃、幼馴染で恋人の栄子は、のぶあきとの結婚が原因で父親と口論となっていた。
栄子の父親は、肝硬変で倒れた父を持ち、経済的にも苦労するであろうことが考えられるのぶあきとの結婚に反対をしたのだ。
もちろん、娘の幸せを考えての結論だった。
しかし、栄子には父親の考えが理解できなかった。
栄子はのぶあきの一緒になりたいという気持ちに打たれ、父親の元を飛び出してしまう。のぶあきは飛び出してきた栄子の手を握りしめ、2人はただあてもなく逃げ走った。
すると2人の前に1台の車がやってきて行く手をさえぎった。2人の親友の津本だった。「乗れ!」津本はそういうと2人を乗せてアクセルを踏んだ。
家を飛び出してから、栄子は1度も父親の元へ戻ることはなかった。
そして、相変わらず父親をはじめ栄子の親戚からの、のぶあきとの結婚に対する反対は続いていた。
そんな中、のぶあきの父が亡くなった。享年61歳という若さだった。
のぶあきの父の死を看取った後、2人は結婚をする。
それから1年後、長女:有紀が生まれた。
父が生きている間に結婚できなかったこと、孫の顔を見せてあげられなかったことが、のぶあきの唯一の心残りとなった。
父の死後のぶあきは、建設請負業 山本組を引き継ぐ傍ら、消防団、村議会選挙への参加(3期目ではトップ当選を果たす)、橿原青年会議所への入会、日本青年会議所への入会など目まぐるしい9年間を過ごした。
村議会選挙でトップ当選を果たした翌年には、「遅くまで子供を預かってくれるところがない」「保育所が欲しい」という声に応え、社会福祉法人 朱鳥会 明日香保育園を設立した。
しかし、かつて思い悩んだ自分探しという情熱が、青年会議所に出向し世間の広さを再確認することで、再びのぶあきの心を熱くさせる。
のぶあきは決断した。
妻:栄子に明日香保育園を託し、村議会選挙への不出馬、消防団退団、建設業からの完全撤退をしてしまう。
もちろん妻:栄子は大反対だった。せっかく安定した生活を送れるようになったというのに何故?と。しかし、のぶあきの決意は固く、妻の意見を押し切る形で、のぶあき(34)、少し遅めの自分探しの旅はスタートした。
のぶあきの挑戦はことごとく失敗を繰り返した。
共同経営で始めた「居酒屋経営」は赤字続きで解散。
これからの時代は幼児教育だ!と始めた「チャイルド自由学園」は自分の子供と甥っ子にしか広まらず、やはり赤字経営となり廃業。
この頃、唯一ののぶあきの仕事は、妻:栄子のおかげで軌道に乗りはじめた明日香保育園の朝夕2回のバスの運転手業だけであった。
そんな状況を目にした村の人には、「山本さんとこの嫁さんはよう働きますなぁ」「嫁に働かせて何もしない」などと嫌味や陰口を言われることもしばしばあった。
しかしのぶあきは「うちの嫁さんは働き者ですねん」と笑顔で切り返し、持ち前の明るい性格で次第に自分の進むべき道を切り開いて行くのだった。
昭和29年 10月5日 山本のぶあき誕生!
昭和36年 飛鳥幼稚園卒園
昭和42年 明日香村立明日香小学校卒業
昭和45年 明日香村立聖徳中学校卒業
昭和48年 奈良県立高田高等学校卒業
昭和52年 近畿大学理工学部卒業
昭和52年(22) 建設請負業者 山本組 就職
昭和54年(24) 父:正春 肝硬変の為 死去(享年61歳)
昭和54年(24) 栄子と結婚
昭和55年(25) 村議会補欠選挙 無投票当選
昭和55年(25) 長女:有紀誕生
昭和55年(25) 消防操法全国大会出場
昭和56年(26) 村議会選挙2期目 411票 副議長に就任
昭和57年(27) 次女:愛誕生
昭和58年(28) 山本組を(株)正和建設に改名
昭和59年(29) 橿原青年会議所に入会
昭和59年(29) 三女:千歳誕生
昭和60年(30) 村議会選挙3期目 501漂 トップ当選
昭和61年(31) 社会福祉法人 朱鳥会 明日香保育園設立
昭和63年(33) 日本青年会議所出向
平成元年(34) 村議会選挙 不出馬
平成元年(34) 消防団退団
平成元年(34) (株)正和建設 建設業からの完全撤退
平成04年(37) 橿原青年会議所 第20代理事長に就任
平成05年(38) 村議会選挙再出馬4期目 無投票当選
平成07年(40) たかとり保育園 開園
平成08年(41) 村議会議長に初就任
平成08年(41) 母:キミエ 死去(享年78歳)
平成09年(42) 村議会選挙5期目 360票 6位当選
平成11年(44) 高市郡選挙区から県議会選挙に立候補 初当選
平成11年(44) 知的障害者更生施設 あけみどり 吉野町に開園
平成14年(47) 初孫:章博誕生
平成15年(48) 県議会選挙2期目 無投票当選
平成19年(52) 県議会選挙3期目 トップ当選(高市郡・橿原市の選挙区となる)
平成20年(53) 2人目の孫:和弘誕生
平成23年(56) 県議会選挙4期目 トップ当選
平成23年(56) 3人目の孫:弥令誕生
平成24年(57) 4人目の孫:果甫誕生