私の履歴書

『後援会だより』平成12年4月第10号~平成14年11月第20号に掲載させていただきました。

私の履歴書①

ほろほろと 鳴く山鳥の 声聞かば 父かとぞおもふ 母かとぞおもふ(行基菩薩)

 父は昭和54年、母が平成8年に亡くなり、年月が過ぎる中、まさしくいろいろな場面で父母を想い出します。

 物心がついた頃父は、市場で牛を買ってきて小さな家の一角で飼い、農家の方々に牛を売買したりする、いわゆる当時の職業で”馬喰”と呼ばれる仕事に就いていました。私はそんな父に連れられて良く市場へ行きました。たくさんの牛の姿や、牛を売買する人たちの様子を眺めながら、市場の中の食堂で、うどんや天ぷらを買ってもらって食べるのが楽しみでした。また、牛を車に積んで家の近くで降ろし、牛小屋に入れる為にロープで牛を追ったり、毎日学校から帰ってきて夕方、押切りという道具で藁を切って餌を混ぜ、牛に食べさせていたのが、10歳ぐらいまでの生活で記憶に残っています。

 その後父は、私が小学校5年生の頃から、ダンプカーで土や砂利を運ぶ建材業を営み、高校2年生の時に、土木建設業を設立しました。そうした中、父は昭和40年から、亡くなる54年まで、14年の間、明日香村の議会議員に、席を置かせていただきました。

 父が亡くなったのは、私が大学を出て、父の仕事を手伝って2年目の時でした。仕事を継ぐ経緯や成人してから今日までの人生については、後日の機会に述べさせて頂くとして、今回は成人までを振り返ってみます。

 小さい頃から私は、父と母をたして2で割ったような性格であると良く言われました。父が亡くなってから、父は大変気性の激しいところがあるが後に残さないすっぱりとした性格だったと、ざっくばらんに言えば、口は悪いが腹の中はきれいな竹を割ったような性格の人間だったと、父を良く知るたくさんの人から聞きました。なぜ亡くなってからかと言いますと、父は家では殆ど外であった事は言わなかったからです。家では、私が小さい頃から、人から聞くような気性の激しいところは無く、私と姉にはやさしい父だったように思います。

 母のことにふれさせて頂くならば、電信柱にでも頭を下げるぐらい、腰の低い愛想のいい、父を陰から支える母だったと思います。結婚当時父は”かじや”を業としていましたが、生活は苦しかったようです。それから、姉、私が生まれ、仕事も何度か変わる中で、選挙に出たりして、私の高校生ぐらいまでの記憶では、家計はかなり大変だったと思います。そんな中母は、本当にこつこつと内職に励みながら、父を支え、私たちを育ててくれました。

 私は二人の性格を少しずつ頂き、今の自分があるのだと思います。

 お釈迦さんの教えに、父母の恩を忘れてはならないとありますが、冒頭に書かせて頂いたように、最近特に、いろいろな場面で父母に支えられているんだなと、あらためて感謝の気持ちでいっぱいです。

 私の履歴書が、父母の履歴書になった感がありますが、父母語らずして自分のことは語れないと思い、このような書き出もしになりました。紙面の関係で今回はこれぐらいにさせて頂き、次回には私の人生ストーリーを述べさせて頂きます。

私の履歴書②

“スクイズ失敗” 方事休す!!

 昭和47年夏、全国高校野球選手権奈良大会一回戦、2対1の1点差で迎えた八回裏1アウトランナー三塁、一打同点のチャンス、バッター四番山本、結果は・・スクイズ失敗、ピッチャーフライダブルプレーでチェンジ、そのまま敗退。これが、私の高校野球最後の試合であり、また、学生時代で最も印象に残っている出来事です。

 私は小さい時から野球が大好きでした。私が小学校の頃は現在のような少年野球チームは村にはなかったので、仲間で草野球を楽しむ毎日でした。

 中学では入学式当日から野球部に入り、その日から練習に参加しました。中学時代は、セカンド・ショートとして三年間過ごしました。高校は、昨年44年ぶりに甲子園出場を果たした高田高校に進学し、野球部に入部しました。ここで、昨年の選挙でたいへんお世話になった深谷和道君と一緒に三年間野球をしたのであります。

 私達の時代は、先輩が甲子園に出てから15年がたった頃で、あまり強くなかったのですが、前年度県大会ベスト8まで残ったので、この年も同じところまではと、誰もが同じ思いで一回戦に臨んだのですが、私のスクイズ失敗で、皆の夢はあえなく華と散ったのです。その時は、自分自身の情けなさとチームのみんなに対する申し訳ない気持ちで、九回表の守備ではキャッチャーをしているマスクの中で涙があふれてとまらなかったのを今でもはっきりと覚えています。

 そのことがあってから、大学時代も社会に出てからも、大事な場面では失敗を恐れるようになり、なかなかこの失敗コンプレックスから抜け出せませんでした。そんな中で父親が死に、結婚して村会議員になり、福祉の仕事に携わりながら、昨年、母校の44年ぶりの甲子園出場と同じように、”県会“ という私にとっての甲子園に送って頂きました。

 今から思えばあの時、スクイズ失敗したことが今日の自分に大きな影響を及ぼし、悔しい思いをバネに頑張ってこれたのだと思います。今でも失敗コンプレックスは多少残っておりますが、いろいろな体験を通して、コンプレックスを解消させて頂きました。

 そのことは次回書かせて頂くとして、野球をしていたことが、私にとっては本当に良かったと確信しております。多くの友人、知人、先輩、後輩というすばらしい財産を頂きました。これからもこの財産を大切にしながら、県会という甲子園で頑張っていきますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

私の履歴書③

“私は素直な気持ちで生きています”

 この言葉が私の人生で、私自身と〈契約〉している言葉です。

 前回の履歴書で、私には失敗コンプレックスがあったと書かせていただきましたが、他にも物心がついてからいろいろなコンプレックスを持っていました。

 例えば、自分自身のことで、もっと顔とスタイルが良かったらという容姿コンプレックス、何故もっとお金持ちの家に生まれなかったんだろうかという家柄コンプレックス、その他に、勉強・スポーツ・芸術等の回りの人たちに対する能力コンプレックスがありました。

 また、これらのコンプレックスの原因を、生んでくれた両親のせいにしたり、回りの誰かの責任に転嫁する考え方が、父親が亡くなるまでもありました。

 父が亡くなり、村会議員になり3年が経った頃、青年会議所(JC)という団体に入らないかというお誘いを受けました。

 青年会議所(JC)は、“明るい豊かな社会”の実現を目指し、次代の担い手として、新しい時代をリードしていこうという自覚を持った20歳から40歳までの青年の集まりです。

 このJCとの出会いが、多くのコンプレックスの解消、父母に対する感謝の気持ち、全ての出来事は自分が源であるという自覚、自分を愛し他人を愛する気持ちを、学ばせていただきました。28歳から40歳までのJCでの12年間が、私にとっての「人生学校」だったと言えます。

 紙面の関係で詳細については書けないのですが、この間で、いろいろなことを体験し学ばせていただきましたが、私自身の「変革」に、大きな影響を及ぼしたのは、TA(トランザクショナル・アナリシス)との出会いです。日本では「交流分析」とか「対話分析」と言います。

 TAは、精神分析の創始者として有名なフロイトの流れをくむ、アメリカの精神分析医エリック・バーン博士によって開発された新しい臨床心理(東洋思想)的な分析システムです。

 TAの教えは、「自己の持っている本来の能力に気づき、その能力の発揮を妨げている色々な要因を取り除いて、いかに一人一人の人間が自らの可能性に向けて生きていくことができるか」というところにあります。

 このTAでの学び・体験で“人生を素直な気持ちで生きていく”そして“人に喜んでもらえる仕事をする”ことを、私自身との〈契約〉にしたのです。

 この契約を40歳以後も、自分自身に言い聞かせながら、村議会議員・(福)朱鳥会の理事長として、福祉活動に携わってまいりました。

 そして、県議会議員としてもこの気持ちを忘れることなく、商市郡・奈良県発展の為に、県会という甲子園で頑張ってまいります。

つづく

一生初心

私の履歴書④

“出会いこそ人生”

 スクイズ失敗による、失敗コンプレックスをはじめ、いろいろなコンプレックスを持っていた私が、JC (青年会議所)やTA(交流分析)との出会いや、多くの人々との出会いなど、他力による支えによって劣等感の解消につながり、今日、私の人生が成り立っていると思います。

 新春正月、慮激の21世紀を、家族や友と思い出話に花を咲かせています。

 まずは、やはり今は亡き父母であります。生きている間には、不満を言って困らせた事もたくさんありましたが、亡くなってみて、諺どおり、“親孝行したいときには親はないであります。当たり前のことではありますが、父母との出会いなくして私は存在しません。仏になった父母をはじめ、ご先祖様に感謝し、一生懸命生きていくことが、家族みんなでできる何よりの親孝行です。

 そして、父母のおかげで生を受け、その後の私の出会いは、幼稚園・小学校時代の先生です。

 幼稚園の時、岡寺の初午の祭りでおもちゃのピストルを買ってもらい、嬉しくて幼稚図へ持って行って見せびらかしながら遊んで、こっぴどく叱られた、南淵先生。

 小学校では、1・2年を担任していただいたのは、確か少し年配だったと記憶しているのですが、今も元気に飛鳥に住んでおられる ~やさしさ~ を教えてくださった吉田先生。

 3年になると、はじめての男の先生で、安田先生といわれ、大変厳格で怖かったことを記憶しています。この時先生から教わった ~きびしさ~ が今の私を支えていると思います。

 4年は、長い竹の棒でこつん、本の間に指を挟んでこつんとすごく怖かったけれど、~思いやり~ を教えてくださった大西先生。小学校の友達と一番話題にのぼり、今でも逢いたいと思っている先生です。

 5・6年は、久林多聞先生といわれ、お坊様の先生で、やんちゃな私たちのびっくりするような行動をいつも大きく受けとめてくださった先生でした。小学校最後の2年間ということもあり、多聞先生の影響と、父が村会議員になったということで、この頃からちょっと大人びた考え方になっていったと思います。

 また出会い、縁とは妙なもので、この頃小学4年から中学に行くまで習っていたそろばんの先生が、県会の選挙から大変お世話になっている花井後援会長なのです。

 人間は小学校のころ、10歳前後にパーソナリティーが決まり、自分の人生を、こう生きていこうという、人生ドラマのシナリオ・脚本を描くそうです。ふりかえれば、私もこの頃いろいろな人生ドラマを思い巡らした記憶があります。

 これ以後、中学・濶校に進むに連れて、いろんな環境や、人々との出会いにより、人生のシナリオは大きく変化していきます。

 次回につづきを!

= 21世紀スタート! =

高市郡・奈良県発展のために、輝く末来に向かって突っ走ります!

一生初心

私の履歴書⑤

“わが高校時代”

 決して強くはなかったけれど、野球なくして語ることができない高校時代でありました。

 私が、明日香村の小・中学校を卒業して、はじめてふるさとを離れ、進学した高校は県立高田高校でした。

 入学してまず驚いたことは、クラス45人中、男子が16人、女子が29人、なんと、3人に2人が女生徒であったことで、教室の中は、あの人気の高かった金ボタンのプレザー姿ばかりに感じたことです。

 三年生になって、自分の頭の構造とはおおよそ違うであろう理科系に進み、男子クラスになりましたが、学校全体が女生徒中心の雰囲気に包まれながらの学生生活でありました。そんな環境の中で、女性に囲まれ、もてもての高校時代をここで書きたいのですが、今では、女の子3人の父親であり、ましてや家内の手前、シークレットにしておき、(えらそうなことを言っても、実のところまったく話せることがないので)冒頭に書きました、野球を通じての商校時代を、お話したいと思います。

 高田蕎校は、最近44年ぶりに甲子園に出場しました。私達の時は、先輩が甲子園に初出場し、その上ベスト4になられて、1 5年が経っており、黄金時代とは程遠くメンバー9人さえ集まりにくい時代でした。そんな中でも伝統に誇りを持ち、”今に見ておれ!!”という気持ちで毎日練習に明け暮れていたものです。

 二年生の時の県大会でベスト8まで進みましたが、三年生の時は、前にも書きましたが、私のスケイズ失敗により、一回戦敗退であえなく散ったのでありました。

 高校時代の自分のことを、一言で言うとすれば、野球をしながら“つっぱり学生”だったように思います。今から思えば少し恥ずかしい気もしますが、いろんな問題も起こし、両親にいちばん心配をかけていた頃でした。しかし、野球をやっていたおかげで、大きく道をそれることもなく、友達もたくさんでき、先輩・後輩にも恵まれ、今日の自分がある基礎が、ここにあると言っても過言ではありません。

 野球をしてきて、一番心に残っているのが、は、生まれてはじめて、キャッチャーという本当にしんどい守備について練習試合をした時のことです。私は、中学からずっと、セカンド・ショートを守っていました。ところが、高校一年生の夏、新チームになり、突然、キャッチャーをするはめになり、初めての練習試合は、真夏の真っ只中の試合でそれも、Wヘッター(二試合連続)で、“もう、こんなキャッチャーなんかしんどくて嫌だ!!”、と思い、監督に申し入れました。私達の戸田監督は、甲子園でベスト4になった時の監督で、監督として最後の年でした。私が、申し入れた時、監督は、”そんな根性のない奴は私はキライだ!! すぐ、野球をやめて帰れ!!“ と言われたのでした。

 その後、気持ちを立て直し、キャッチャを最後まで続けましたが、本当にしんどかった時に監督に思いきり怒嗚られ、その時は腹も立ちましたが、今では、あの時の監督の言葉のおかげで、そのままキャッチャーというポジションを続けられたことがいろいろな面で役立っていると感謝しているのが本当の気持ちです。

 そして、スクイズ失敗で、悔しさの中から、忍耐と寛容を身につけられたことが、人生においても、大きな影響を及ぼしています。

 同年代のジャイアンツに入団した江川さんが言った“たかが野球・されど野球”まさにそのとおりだと思います。

 今、県会に出させて頂き、多くの野球をやっていた仲間や、すばらしい先輩諸兄、野球を通じてっちかった人間関係に、支えられていることに、心からの感謝をこの紙面を借りて御礼を申し上げたいと思います。

 現在でも、まがりなりにも県会チームでピッチャーをさせて頂き、奈良県軟式野球連盟では、先日、副会長をおおせつかることができたのも、かつて野球をやっていたおかげであると思います。

 これからも、野球でも最も大切な基本に忠実なプレー、そして、チームワークを大切にしながら、戦う意味を忘れず、県会活動をして参ります。

 次回につづきを!

野球部の先輩の言葉

"苦し実の木にしか楽し実はならない”

をいつも心に・・

一生初心

私の履歴書⑥

“夢多き時代”

 高校卒業の18歳から近畿大学へ進学して4年間の大学生の頃、夢を追いかけながら、人生設計に悩んでいました。

 父は、私が高校生になった頃、建設請負業を始めました。その関係で大学は土木科を受けて欲しかったと思いますが、どちらかというと文科系人間の私は、同じ理科系でも、経営工学科、今で言うIT関連の学科に進みました。

 そして、4年間家から大阪まで通っていたのですが、あまりこの学科の勉強にもやる気がおこらず、ただ何となく時間だけが過ぎ、夢ばかり追っていた時期だったと思います。

 休みの日には家業を手伝い、学校へ行ってはさまざまな社会勉強(遊びも含めて)をし、私の最も大きな財産である多くの人間関係をつくることができました。

 またこの頃、テレビで中村雅俊主演の『俺たちの旅』というドラマが人気をよんでいましたが、私も大きく影嘗を受けた一人でありました。彼のように自由奔放に生きることはできませんでしたが、東京・北海道・九州等、毎年1~2ヶ月家を出て、アルバイトをし、そのお金でいろいろな地を旅行しました。この体験は、ふるさとの良さと父母に対する感謝の気持ちを持つことを教えてくれ、卒業後家業を手伝うことを決めることもできました。

 悩み多き20歳頃でありましたが、この4年間を一言で振り返るとすれば”夢多き時代II であり、あれもしたい、これにもなりたいが、自分に自信がなく、自分のことを好きになれない、コンプレックスが最も強かった頃でした。

 この気持ちは、卒業して家業を継ぎ、父が亡くなり村会議員になってからも続くのでありますが・・

 そして、波多き人生が始まります。

 つづきは次回に!

“信頼・愛情・礼儀”が

素晴らしい仲間づくりにつながります

一生初心

私の履歴書⑦

“波多人生年表”

年度(歳)     出来事

S52(22) 近畿大学卒業父の仕事建設請負業山本組入社

S54(24) 父正春肝硬変の為死去( 享年61歳)・結婚

S55(25) 村議会捕欠選挙無投票当選
    長女有紀誕生
    消防操法全国大会に選手として出場

S56(26) 村議会選挙411票4位当選・副議長就任

S57(27) 7/31~8/l大雨による大災害発生災害復1日に尽力
    次女愛誕生

S58(28) 山本組を(掬正和建設に改名

S59(29) 橿原青年会議所に入会

S60(30) 村議会選挙3期自501票トップ当選

S61(31) 社会福祉法人朱烏会明日香保育園設立理事就任・三女千歳誕生

S63(33) 日本青年会議所出向(世問の広さを認識)

H元(34) 村議会選挙不出熙・消防団退団
    (株)正和建設建設業から完全撤退
    社会福祉法人朱鳥会理事長就任

H4(37) 檀原青年会議所第20代理事長に就任

H5(38) 村議会選挙4期目無投票当選

H7(40) たかとり保育薗開薗

H8(41) 村議会議長に初めて就任・母キミエ死去(享年78歳)

H9(42) 村議会選挙5期自360票6位当選・議長再就任

H11(44) 高市郡選挙区から県議会議員選に立候補初当
    知的障害者更生施設あけみどり吉野町香束に開園

H13(46) 県道拡張の為自宅立退き年内に移転完了予定

一生初心

私の履歴書⑧

“波多き人生(昭和52年~)”

 大学を卒業する頃、父は村会議員をしながら、土木建設請負業を営んでおりました。

 私は家業を継ぐのが嫌で、よく父とぶつかりました。ある時父が“お前の気持ちもわかるし、ワシも一度はお前に他人のメシを食べさせて勉強させたい!しかし、この体を見ろ。とにかく今は家を手伝え。先でこの仕事が嫌ならいつ止めてもいいから。”と、肝臓癌で足の腫れている自分の体の様子を見せました。私は、父のその姿・話を聞き、家の仕事をする決意を致しました。

 仕事を手伝って2年が過ぎ、私が25歳になる昭和54年5月、父は肝硬変で亡くなりました。ちょうどその頃妻と結婚することを父に告げ、父も喜んでくれていた矢先のことでした。

 まだまだ業界のことも何ら手さぐりの中での突然の父の死、母と夫婦3人、今後のことを考えると途方にくれたのであります。

 何とか妻と従業員の方々とで細々と仕事をして一年が過ぎた頃、父が亡くなった為の補欠選挙に出ないかというお話が突然あり、いろいろな方々と相談した結果、出馬する決意を致しました。今から思うと何ら政治に対する熱い思いもないまま、父が現職で亡くなったということと、家業にも役に立つのではという少しやましい気持ちもある中での出馬が、後に議員を辞めることにつながるのであります。その後2回の選挙で、4位そしてトップ当選をさせて頂きました。議会活動と家業の方もあまり気の進まないままではありましたか、それなりに顧調に進んでいきました。

 そんな中、前にも述べましたが青年会議所(JC) の影響で議員活動はこれでいいのか?本当の自分の仕事として何をすべきか?さらには人生の目標は?等といったことに真剣に問いかける日々が続き、保育園を設立したのをきっかけに、遂に、周囲の反対を押し切り、平成元年34歳の時、村会議員選挙不出馬、建設業からの完全撤退を決行したのであります。

 同時に、社会福祉法人朱鳥会(明日香保育園)の理事長に就任致しました。自分ではもう一度ーから人生を見つめなおし、本当の政治とは何か、まちづくりとは何が大切かを勉強しなおし、さらに大きく成長して村のお役に立ちたいという思いがあったのですが、世間はそれほど甘くなく、最近参議員を辞めた大橋巨泉さんの様に、身勝手な行動として、今まで支えて下さった方々には理解を得られず、非難の声を聞いた時には、悲しい気持ちになったのを覚えています。

 また、父が生きている時よく私に言ったことは“目標が3つある。一つ『は家を建てること、二つはトップ当選をしたい、三つ目は議長になること。”でした。ちなみに私か辞めるまで、家とトップ当選は果たすことができましたが、議長になることなく辞めたことが、心残りであったことは確かでした。

 大学卒業後、まず家業を継ぎ、父か亡くなり結婚し、子供(女の子)が3人でき、家を建て、保育園を設立しましたが、父・母が苦労をして築いた家業を撤退し、父の七光で当選させて頂いた議員も辞め、妻や年老いた母に心配をかけ、支えて頂いた友人・支持者の方々に何の説明弁解もしないままJC活動に没頭していく訳です。その後平成5年、再び村会議員に出馬するまでの4年間が、私の人生を大きく変えることになります。

つづきは次回に!

一志一道

私の履歴書⑨

“決断”

 人生には、三度大きな決断をしなければならない時があると言われています。

 私の場合、その一つが議員辞職と家業の撤退であります。しかし、辞める決断より次の目的を見つける決断に、平成元年から4年間もの時を費やしました。

 保育園の理事長をさせていただきながら、これからの人生をどのように生きていくのかを凡人なりに悩みました。

 4年間、JC (青年会議所)活動の中で日本青年会議所という大きな器で、大海の人たちから、出会いと感謝、おかげさんの気持ち等、生きていく上で最も大切なことを学びました。

 また、TA(トランザクショナル・アナリシス)日本では交流分析と訳されている臨床心理的な分析システムとの出会いで、自分のいろいろなコンプレックスを大部分解消することができました。

 そして、平成5年、再び村議会に出馬することを決断いたしました。

 一度辞めた人間が何を今さらという批判の声も聞きましたが、「ふるさとがよくなること」「人に喜んでもらえる仕事をしたい」という二つの目的を見つけた私は、その目的に向かって、議員という職に、新たな気持で挑戦することを決断したのであります。

つづきは次回に!

私の履歴書(最終回)

“新たなる出発”

 いよいよ村会議員を平成5年に再スタートした私は、日本一美しいまちづくり、ふるさとを愛する人づくりをスローガンとして、新たなる出発を致しました。

 選挙の洗礼を受けずに、無投粟で講員になったはじめの頃は、何か違和感がありましたが、村民の皆さんとも話し合いを続けていくうちに、徐々に理解を得ていただくようになり、前の時とは違った村づくりに生きがい、使命感を持って諮員活動が出来、充実した日々を過ごさせて頂くようになりました。

 そして、平成8年に巖長に就任させて頂きました。

 履歴書にも書かせて頂きましたが、1 4年間村会證員をした父が、議長には縁が無いまま亡くなり、私も平成元年まで議員をさせてもらった時には、議長になれないまま辞めましたので、今回の議長職はいづれにしても感慨深いものがあり、父の霊前に何はともあれまず報告をさせて頂き、さらに一生懸命議会活動をすることを決意したのであります。

 しかしそんな中、父が亡くなってから何かと家族を支えてくれていた母が、前から患っていた肝臓の病気が悪化し、この年の9月19日帰らぬ人になってしまいました。私は、4 1歳でありましたが、両親がいなくなった実感は本当に寂しいものがありました。亡くなる前に議長に就任させて頂いたことがせめてもの慰めでした。同時にこれからの人生を、今までの父母の恩を忘れることなく胸に刻み、家族・地域の為にも頑張ろうと思ったものであります。

 またその頃、私は諮員のほかに(福)朱鳥会で保育園を運営させて頂いておりましたが、高取町での保育園の設立を望む多くの声を聞き、平成7年に高取保育園を開園致しておりました。

 明日香村と高取町で保育園を運営させて頂いた関係で、嵩取町の皆さんともいろいろまちづくりについて話し合う機会が多くなり、高市郡のまちづくりをしなければと思うようになったのであります。

 このあと平成9年選挙があり、無事当選させてもらい再度議長を拝命し、平成11年、以前の履歴書での思いで、県会に出馬をして、現在に至っております。

 これまで思いのままの文章で、また勝手に押し付けがましく連載させて頂きましたが、少しでも私というものを知って頂き、どんな人間が高市郡の県会議員として活動しているのか、2期目も私という人間でいいのかどうか判断して頂く材料にしてもらえればという思いで、掲載させて頂きました。

 今回までご拝読頂きました事、心よりお礼申し上げます。

 そして、私が今日まで歩んできた中で、多くの大切な人との出会い、学び得た事柄を胸に、いつも唱えている詩があります。

 その詩をお伝えし、最終の「私の履歴書」とさせて頂きます。

 今後とも、今まで以上に支え、ご指導して頂きますことを心よりお願い申し上げます。

一生初心