壷坂寺

壷坂寺は真言宗の寺で、『南法花寺古老伝』によると、703年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、そこで感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれています。その後、元正天皇に奉納した後に御祈願寺となりました。

平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ、平安貴族達の参拝が盛んになり、清少納言は「枕草子」の中で「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺として、筆頭に挙げているほどです。また、藤原道長が吉野参詣の途中で宿泊したという記録も残っています。
この頃、子島寺の真興上人が壷阪寺の復興にあたり、真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となり、三十三所の観音霊場信仰とともに、寺門は大いに栄えていきました。
その後数度の火災にあいましたが、その度に再建がなされてきました。
しかし、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とともに壷阪寺も衰退していきます。
一時は山内に三十六堂、六十余坊の大伽藍を配していましたが、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなってしまいます。その後近世になると、豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していきました。

明治の初めには、盲目の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語である、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が講演されたことをきっかけに、歌舞伎、講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まります。『壷坂霊験記』では妻お里の観音様への信仰によって夫の沢市の目が見えるようになったことから、壷坂寺は眼病平癒のお寺として有名となり、また寺としても祈願や盲人への福祉に力を入れています。ラベンダーを植えることによって目の不自由な方にも楽しんで頂けるようになっているのはその一例です。昭和39年からは、インドにてハンセン病患者救済活動に着手し、教育助成事業や地域開発援助などの国際奉仕活動を、現在もインド各地にて幅広く行っています。